3・11の大震災にあって
原田 夏子

 今回の3・11の日の大震災とくに大津浪では東北地方の東沿岸部は家屋も人も沢山流されてしまいました。あとかたもない沿岸部の惨たるテレビの映像は、私にかの空襲後の仙台の焼土を思い起こさせました。空襲では落とされた焼夷弾で木造の多かった下界はすっかり焼き払われましたから、津波による瓦礫の山を撤去しなければならないような苦労は全くなかったのは皮肉です。
 人間によって起こされる戦争の被害も、今回のような自然災害もこれからは全地球規模で叡知を出しあい、被害を最少にくい止めて安らかな人類の生存を真剣に考えていかなければならないとつくづく思います。
 三月十一日は外出の予定もありませんでしたので、二時半ごろ昼食を終え、お茶を飲んでゆっくりしていました。そこへ地震です。どんと突き上げるような感じと横揺れとが一緒にきたように思いました。この時、直感的に大きくなりそうに思われ、入っていた炬燵の電気を切り、部屋の隅のガスストーヴに飛びついて消し、すぐ部屋を出て近くのトイレに半身を入れたまま戸につかまって立っていました。ズンズンズンという縦揺れもグラグラという横揺れも交って、わが家が分解するかも知れない恐怖に堪えていました。家の中のあちこちで物の倒れるような音もしたようでした。冷静に、落着いてと、この家は建ててから三十年近くにはなりますが鉄骨造りで建築規準がやかましくなった後の家だから、と気を鎮めますが、今まで経験したことのない激しい揺れ、それは随分長く続くように思われました。後の記録ではM8・8改めM9、揺れが完全におさまるまで5、6分つづいたのではなかったかと思い出します。わが家がこんなでは、ご近所はどうだろうと心配になって通りへ出てみました。見渡したところ倒壊した家はない様子、お隣りの人達も出てきて顔を見合わせ、いたわり合いました。立町小学校が避難所ということで、奨められましたが、家にいることにしました。日が暮れて暗くなっても停電のままです。雪もちらついてきました。ガスも出ませんから暖房は皆無、とにかくありあわせのパンなど少し食べました。三月は仙台ではまだまだ寒い日々です。蛍火ほどの懐中電灯を頼りに、上階の寝室へ行ってみましたが、廊下から押して開けるドアがあきません。隣の日本間の戸も同じです。いずれも内側に何か倒れて邪魔をしている様子です。仕方なく下の応接間の隅に座布団を敷いて、電気炬燵の布団や外套の類を掛けて寝ることにしました。寒くて寒くてその上に余震がつづくものですから、とても眠れたものではありません。真暗の中を何度もトイレに通いました。手巻きラジオが近くにあったことを思い出し、ラジオで情報を得ようとしますが、始終巻いていないと音声もつづかず、腕が疲れるので止めました。
 それでも少しは眠ったでしょうか。寒い夜が明けました。朝、町内の役員がみそ汁の炊き出しがあると知らせてくれましたのでお椀をもって並びました。大勢の人で長い列が出来ていました。こんな光景はかの戦争のとき以来です。立ったまま温いお汁をいただきました。列の先に募金箱があり、みんな何ほどかカンパをしました。
 夕方四時からまた並んだ時は、カレーライスでした。町内会では見なれない若い男女もたくさん並んでいましたが、どうやら近くのマンションの貸室に住む学生か独身の会社員のようです。高い部屋はことさら揺れてこわい思いをしたでしょうに、彼等はみな静かに並んでいました。
 わが家の被害状況を確かめる余裕もなく、地震の詳しい様子も、まして大津浪のことも知らないまま、また夜になりました。

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