失われつつある生活のリズム  

−晴(はれ)と褻(け)の調和

 昔のことをいうと余りの違いに悲しさが先立ってしまう。自分らの頃には子供部屋はおろか、勉強部屋すらなかった。夕食がすむと炉端に飯台と呼ばれる食卓を持ち出し、裸電燈の一番明るい下で予習、復習がはじまる。炉には薪が赤々と燃え、傍らにも祖父がいたし両親もいた。「父(とう)ちやん。『冷笑(れいしょう)』って、どういう意味っしゃ」と私が聞く。祖父と父が少し言い合ったが、「それは他人を馬鹿にしたように笑うことだ」と父が正解してくれる。「おじんっあん。『人間万事塞翁(さいおう)が馬』とはどういうときに使う言葉なのっしゃ」、これは漢籍に詳しい祖父が「支那の諺で、人生の禍福が予測できないという意味だ」と正解してくれた。のちにこの諺(ことわざ)が上級学校のテストに出て、大いに助かった思い出がある。


ラジオそして相撲放送

 最高の人気は爆発的に愛読された吉川英治の「宮本武蔵」である。ゆっくりとした語りのテンポしかも、声の高低、独特の抑揚、まさに枯れた゛夢声節の極致である。
「沖鳴りが響いてくる。二人の足もとに、潮(うしお)が騒いでいた。巌流は、答えない相手に対して勢い声を張らないでいられなかった。怯(おく)れたか。策か。いずれにしても卑怯と見たぞ。…約束の刻限は疾(とく)過ぎて、もう一刻の余(あまり)も経(た)つ…」
宮本武藏と佐々木小次郎が戦う巌流島の場面である。
夢声老の声は武蔵を「ムシャシ」と呼ぶように聞える。淡々とした語りの中でにじみでる迫真力にわれを忘れる。




            目次にもどる